2018/02/03 AM7:00

結局自分は何かにのめり込んだ試しもなければ、なにも語れない人間なのではないかと思うことが多い。

 

 

-10代、場所、音楽

 

群馬の、田舎でもなければ都心でもなく、郊外と呼ぶには、その対象となる中心もないような場所における10代は、自己と友人関係が社会に存在しているような感覚に陥ってしまう。

 

俺の場合はそこに音楽があった。音ではない、音楽が、音楽にまつわる社会が、世界があった。

音楽に言葉を与え、思考を与えてる快楽、というものがあった。高校生の頃は近所のブックオフで買っていたロッキング・オンスヌーザークロスビート、などの90年代~2000年代の音楽雑誌にあるような、熱に浮かされた文章に浮かされ、音楽を聴いていた。

パッケージングされていない、当時の言葉で当時の熱を「読む」こと、読み重ねることで、その熱が自分の中にインストールされていく。歴史が、熱とももに自分の中に入ってきて、その熱は音になって俺に届く。その熱の中に、たまに異物が入ってくる。アークティック・モンキーズ!クラクソンズ!ハドーケン!なんだこれは、とたじろぐ、その新しい熱を、自分のものにしようと言葉にして、思考にする。

 

そうしていると、自分が社会の中に確かに存在しているのだ、という気持ちになる。

俺は、俺が手にいれた熱い歴史の上に立っている。そして次に来る異物も、また新しい熱だ。

ママチャリに乗って駅まで10分、その10分をoasisが歌う。Need a little time to wake up 、と歌う。それにどれだけ心を震わされてきたのかということを俺は知っている。

あの瞬間、俺は世界のなかに存在し、世界には俺がはるか知らない熱が点在し、点在する熱に浮かされ、俺は熱のまま俺であることができた。これが俺の音楽だ、他の誰の音楽でもない、これが音楽で、これが俺だ、ということが出来た。

 

 

-20代、音楽

 

それができなくなった。

何を聴けばいいのかわからない。熱が消える。

大学一年生のとき、自分が最先端に触れているというある自覚が消えた。これが最先端だ、これが新しい熱だ、と呼べるものが増えすぎ、熱量を分散できず、そしてついに、「みんな音楽が好きなんだ」と知ってしまった。

新譜を待ちわびた日々はサブスクリプションサービスに取って代わられて、新しい、「最先端であるとされているもの」に耳を通す、が、熱はない。俺の中に熱はインストールされない。

思考が、言葉が、そこに追いつかない。かつての熱を取り戻そうとしてみるも、それはすべて「10代だったから」の一言で解決させられてしまう。

ツイッターでは批評家気取りのドブ虫が音楽をジャッジする。そのドブ虫が「熱い」と言っているものを、俺は聞けない。音楽を聴いて鳥肌が立つことがなくなった。

 

 

-東京

 

東京で、人間関係に、自己に、疲れた俺は、涼しい顔もできずに、ただ何かに怒り続けている。

怒りは、自我を持ったときから変わらずある。ただ、その怒りの矛先がみつからない。怒りは感情であり、思考ではない。思考がなければ言葉は生まれない。言葉がなければ熱を伝播させることはできない。俺の怒りは、熱も帯びず、生活の中に、精神の中に、がん細胞のように広がり続けている。少なくとも、音楽を媒介に達成されいた何か、その何かを描写することはできないのだが、とにかく、「自分がいまここにあり、そして次なる何かを待っている」状態が、かなりタチの悪い形で現れている。

 

 

-写真

 

大学生のときは、写真を撮ってTumblrにアップロードすることが俺を存在させているものだった。そこに熱はあった。しかし熱でどうこうできるゲームでもない。

目を背けていたものは、徐々に(なにかしらで)「売れ」始めている同級生たちのかっこよさ、彼らの、自分が持っていない器用さ、「未来への不確定な不安」だった。

写真には自信があった。それは虚無感に裏打ちされたクールな自信だった。”俺の写真は誰にも撮れない、俺は、主題のない中心を、もしくは輪郭を撮っている”、と思っていた。

撮りたいものはたしかにあった。しかし、何をとっても、撮ればとるほど、なにを撮りたいのかがわからなくなっていく。

写真を撮ることを駆動させていたものは熱ではない。自己の存立だ。実存に向かって街の写真を撮り、そして、この街と自分はまことなき「外部/内部」に包摂されている、と気づく。

誰かが自分の写真を肯定してくれればいいと思った。知らないうちに誰かの目に留まって、どこかのウェブメディアのに乗ればそれはひとつの「成果」だ。

 

ただ、写真を撮って8年、未だにその「成果」は現れない。熱がないからなのかもしれない。俺は、「写真じゃなくてもいい、ただ今は写真でしか表現ができない」と思いながら撮っていることに気づいている。

ファインダーをのぞくその瞬間に浮かされている熱はなんなのだろうか。言葉でもなければ思考でもない、その瞬間にシャッターボタンを押すだけの俺の写真が、他の「成果」を得ている写真とは何が違うのだろうか。きっとこれからも、誰の役にも立たない写真をHDDに貯め続けるのだと思う。

 

 

-大学院

 

大学院生の頃は何の熱にも浮かされなかった。

スタジオのみんなが何をやっているのかよくわからない。俺は映画も見なければ、もしかしたら音楽にハマっていたことすらないのだ。人間の実存に迫り続けることは危険だが、その実存に一枚なにかを噛ませて、その狭間でいろいろな人が苦しんでいる様子をみて、羨ましいなとさえ思っていた。俺にはその「一枚かます」一枚すら抜け落ちている。

没頭すべき研究対象も見つけられず、連日のように渋谷に出て、可愛い姉ちゃんと居酒屋で仲良くなったり、妙齢の男性に声をかけられて知らない場所に連れていかれ、連絡先も聞かずに始発に乗る夜がくるのだと思っていた。しかし来なかった。

結局、自分で無意識に定めた動きに身体を乗せることでしか街を歩けないと知った。なににも巻き込まれないし、俺のことを知っている人は誰もいない。俺は街にとって必要なものではない。

どうしようもない修論を提出した。友人たちの、熱をまとった修論審査を聞いていたあの時間には、戻りたくない。

 

 

-怒り

 

何者でもないじぶんの存在はどこにあるのだろう。何者でもない自分は、世界にとって誰なのだろう、という問を投げかけ続けている。

音楽を聴くこともなくなった。耳に入れる音楽は増えたが、その熱にうかされることは皆無に等しい。ただ、怒りはある。自分が何者にもなれない怒りと、何者かになろうとしている自分への怒りと、自分を認めない他者への怒りだ。

 

 

-満たされる

 

来月3月、俺は27歳になる。

何も変化してほしくないと思う。俺は俺のまま生きて死ぬしかないし、シンプルなことは考えられない。この俺が満たされる日は永遠にこないとすら思う。滞納している家賃などを払い終えた日なのだろうか。

自分の人生を一時停止して、(これはSF的な話ではなく、ある種のメンタルのモードとして、だけど)そのときになにができるのかもわからない。

誰にも見られていない写真は続けたくない。頭のなかで鳴っていた音楽も止まってしまった。でも写真は取り続けるし、音楽も聴くのだろう。そして俺は生き続けてしまう、自己と自我と共に。

 

 

-何も語れない自分も生き続ける

 

熱がほしい。

俺は何かにとっての誰かである、を、熱を持って自己認識したい。何をやっていいのかわからない。今いる俺はだれなんだ。なんで俺は俺でいられるのかをその日しのぎのメシとかで成り立たせたくない。俺は俺になりたい。満たされない俺になりたい。その渇望に熱を注ぎたい。

もっと俺の熱でみんな火傷してくれ。その火傷を友達にみせびらかすのもいい。

友達がほしい。

何も語れない俺はきっとこのままもずっとこのままで、「何も語れない」ということについてであればいくらでも語れる。でもそれも結局何も語っていないのだとしたら、俺はこの螺旋みたいな人生が少しずつ外周へ向かう螺旋であることを祈るしかない、しかし祈りに割く時間がない。

 

 

-欲望

 

熱の侵入が人生に起こって欲しい。

かっこいいやつらが多すぎる。かっこいいことをしている奴らが多すぎる。俺はかっこいいやつにはなりたいけど「かっこいいやつら」にはなりたくない。

俺はここにいる、これは絶対のことで、俺はここにいるということは揺るがない。

でも時々すごく寂しくなる。寂しい。熱を持つ。怒りを持つ。生きづらい。吐き気がする。

何か俺に、暴力でもいいから、熱を差し込んでほしい。しかもそれは、俺が「差し込まれたい」と思っていない時に。

次の自分はどんな自分なのだろう、そればかり考える。

 

 

ブログを書かなかった話、ある情景と2004年

ブログを書かなければ、と思いながら半年以上が過ぎていた。

理由は二つあって、ひとつは、家の固定回線を解約したこと。

もう一つは、かつて自分が世界に向かって文章を書いていたモチベーションが思い出せなくなっていたことだ。単純に、メモ帳に文章は増えていくのだけど、そこに残っているものはどれも「見えない誰かに向けて書いた」文章ではなく、「見えない自分に向かって書いた文章」、あるいは「何かの為に書いた文章」だった。

今年の5月に書いた文章が100PVいったとかで、それ以来、何か自分の中で、外に出すべきものが無くなったような気がした。

 

言いたいことは言えたような気がしていた。

 

 ブログをよく更新していた頃は、熱病に浮かされたように、言葉がキーボードを叩く速度に追いつかなくなるような、思考がドライブして止まらないようなものを書き連ねる快楽、のようなものがあった。それはしばしば読みづらいとか長いとかとりとめもないとか言われたけど、俺は、思考と文章、その往復運動が楽しかっただけなので、意に介さなかった。

 

ただ、「今年の5月に書いた文章」は、「見えない誰かが読む、何かの為に書いた文章」だった。

 

言いたいことを整理し、まとめ、それがウケたわけで、俺の言いたいことが誰か知らない人に行き渡った、ということはとてもうれしく、しかしそれを読み返したとき、自分で書いたもののはずなのに、どこか他人行儀な印象を受けてしまう。

修士論文を書き上げたときもそうだった。論点を整理した箇所は記憶に残らず、苦しみながらただキーボードをタイプし続けた箇所のことは、はっきりと覚えている。

 

 

身も蓋もない言い方だが、俺は、思考を誰かに伝えたいわけではなく、熱病の熱、文章の速度、増幅される思考、それらがまざりあった吐瀉物を撒き散らかすことのほうが好きで、その吐き方を半年ですっかりと忘れてしまったのだった。

 

 

だから今日は、とりあえず今日は、禊ではないけれど、今年の5月(上で書いた「今年の5月に書いた文章」を書く前)にメモ帳に残していた文章をリライトするところから始めてみたいと思った。

 

 

情景の話です。

 

 

 

 

2017510

 

本棚から、12年前、14歳のときにに買った「sb」というスケートボードの雑誌が出てきた。「スケートボードと会話と情景」という特集だった。

 

12年経って、それをめくり、よく読んでいたページを開くと、そこには今俺が住んでいる街の写真が2枚載っていた。

 

 

今、自分が住んでいる街の「情景」を14歳の俺はくりかえし見ていた。

12年間その「情景」を忘れ、忘れたままこの街にやってきて、そのかつての「情景」と、いまここにある風景が折り重なる。

奇妙な体験だった。

12年前にこの場所に流れていたのは、自分の知らない時間だ。しかしその時間の延長に、今の俺の時間が存在している。

接続されることなく、しかしその二つの時間が目の前で折り重なって、その事実に殴られたような感覚を覚えた。

 

 

その「情景」は、その頃よく見ていたスケートボードVHSの中に出てくる「東京」と重なり、そして東京のイメージを強くするひとつの役割を、俺の中で担っていた。つまり、「情景」=「東京」だ。

情景は輪郭を持たない。はっきりとした地点も示さない。

ただ、雑誌の中の、スケートビデオの中の、「東京」が自分の感情と混ざりあって、それは、俺の中で「情景」としての色を濃くしていた。

 

青色に染まるビル、人のいない街を疾走するスケーター、雑誌の中の東京、恐らく大学に入るときに住み始める東京、今はまだ行けない東京。

セブンイレブンでアイスコーヒーを買った帰り道、歩いているとジャスミンが香って、月がきれいで、スーパーから出てくるOLが空を見上げている東京。

 

 

「情景」としての東京と「情況」としての東京が重なった地点に自分が立っているということを、何と呼べばいいのだろうか。

 

 

「予期してもいなかったけど、現在の自分になにかしらの”意味”をもたらすもの」として今日の出来事を記述することはしたくない。むしろ、これは奇跡ではないと信じることこそが今の自分が東京にいるということへの祝福のように思える。

情景の中に立っている、俺はいつでも情景の中に立つことができる。それは、きっと東京ではなくとも、しかしいまはこの東京でそれが可能だということを教えてくれた、12年前の自分の肩を叩きに行きたい。

お前は、お前の情景を捨てるな、と。

 

 

東京の賃貸住宅に住むということは、見知らぬ誰かが人生を作っていた場所に住むということだ。

俺の関与できないところでどんんどん書き換えられていく/上書きされていく、東京で、でも俺は東京に住んでいて、そこで生きている俺の「俺が生きていること性」は、明文化もされることもなく埋没していくものであってはならない。

 

 

 

 

2002年1月5日

明けましておめでとうございます by xxxx [Mail] 20020105日(土) 2210
 本当に新しいって単純にいいですよね!生まれたばかりの赤ちゃん、おろしたての下着、洗ったばかりのシーツ、塗ったばかりのペンキの壁、開いたばかりのページなんやかやこの気持ち、この感覚をできるだけ持続できたらなって思います。今年もよろしくお願いします。
[/202.217.1.32] Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)

 

 

 

当時は大塚にあった癌研病院にいくついでに、今回は東京のどこに行けるのだろうとワクワクしていた。でも結局、オリジン弁当と、ピーコックの焼き芋をたべて、また関越で地元まで戻る。ある日、上野観光をしたあとに病院に行くと、土気色の顔で、全身がむくんだ伯母さんに笑顔で迎えられて、罪悪感で心臓がつぶれそうになった。そのうちに俺は部活が忙しくなってお見舞いにも行けなくなった。

 

伯母さんのベッドの上には星の王子さまのぬいぐるみがあって、それで妹と遊んだ。チェブラーシカのマグカップ。電子辞書。CDプレイヤー。大学生になって、そういえば伯母さんのCDのなかにハナレグミがあったな、と実家に帰った時に納戸のCD棚を見たら、発売日は2005年の1月だった。伯母さんが死んだのは2004年の5月だ。計算が合わない。永積タカシと交際があったのか、俺は知らないし、知ることはできない。

 

2004年の4月からは、週末はほとんど家に両親がいなかった。土曜の部活はサボって、家にある、『ジム・キャリーMr.ダマー』を笑えなくなるまで見たり、ゲームボーイをしたりしていた。母はいつも小さい東京土産を買ってきてくれて、それがお菓子のひよ子だと嬉しかった。

母の日も、母は東京に行っていたので、俺はイトーヨーカドーで小さい時計が首にかかったテディベアを買っておいた。帰ってきたら渡そうと思ったのだけどその晩の帰りは遅くなり、ただいま、と俺の寝室に入ってくる声が聞こえたので、机の上を指差したら、その先を見た母が泣きながら、ありがとう、とベッド上の俺の手を握った。俺はその日も部活をサボっていたし、それを買った金はこっそりと降ろしたお年玉だったので、素直にその感謝を受け取れず、早く部屋を出ていってくれないかなあ、と思ったのを覚えている。

 

その数日後に伯母さんは死んだ。

人生で初めての葬式だった。雨が降っていた。落合斎場で、親族8人と伯母さんの友人のあわせて9人だけで骨を拾った。遺骨を持つ俺に対して、祖父が、親より先に死ぬんじゃないぞ、と泣きながら言う。大人の男性が泣いているのを初めてみた。

その現象に出会うのは初めてなので、死んだ、ということがどういうことなのかがわからなかった。もともと東京にいる人だったし、伯母さんに会うために東京に行く、東京の伯母さんが来る、その往復の中にしか伯母さんはいなかった。だから、単にそのスパンが大きく開くだけなような感覚もあった。そしてその感覚は今も続いている。開き続けるスパン。

 

その3年後に祖父が、そして父方の祖母が、そして昨年母方の祖母が死んだときは、涙が流れて嗚咽が出た。ただ、伯母さんの死だけは、未だに実感が伴わない。

 

代官山のマンションで遺品整理が終わったあとに、その部屋の持ち主だった人間の妹である、母、が唐突に、叫ぶように泣き出した。俺は、あの泣き声に、自分の実感を肩代わりさせている。14年経った今でも。

 

そして、それまでずっと外部としてあった東京に入り込んで、8年が経った。伯母さんの住んでいたマンションはまだある。俺は代官山に行くたびに、その写真を撮っている。実感がわかない。俺の知らない伯母さんの東京。伯母さんがいた東京。

 

東京。ここはなんなんだろう。東京、東京、東京、俺のいる東京。俺と誰かのいる東京。俺しか知らない俺の足取り。見えない伯母さんの足取り。友達。恋人。毎日たべたもの。すぐゴミ箱にいれられない理由があるゴミ。洗濯物の干し方。見た映画。聴いていた音楽。歩く時のBGM。玄関の芳香剤。ラベンダーのドライフラワー。会いたい人、考えていたこと。俺はいま東京にいる、東京を歩く、恋人と、友人と、あなたの妹と、俺の妹と。むかしみんなで食べたとんかつをこのあいだ父と食べたよ。話したいことがたくさんあって教えてもらいたいことがたくさんある。俺は大人と呼ばれる年齢になってしまった。みんなで歩いてヘトヘトになって、東急で買ったトップスのチョコレートケーキを食べながら、俺を叱る母を叱る伯母さんのことが忘れられない。あのとき俺はどうすればいいのか本当にわからなくて困って泣いてしまった、ということをいまなら言葉にできるのに。東京で電車に乗っていると何回もトップスの袋を見るけど、俺はあれ以来たべてない。サブウェイのサンドイッチ。シェ・リュイのバケット。伯母さんはトーストを焼く時に電子レンジのオーブンで焼いてたけどあれはちょっとおいしくなくて嫌だった。レンジは俺が今も使ってる。伯母さんのアニエスベーの時計は今の俺の彼女が付けてる。すごく似合ってるから見せたい。やっと、やっと東京に来られたのに。俺は新幹線に乗ったことがなくて、いつも乗りたがっていたから、今度新幹線で遊びにおいでっていつも言ってくれてたのに行けなかった。ああ、もうほんとうに、こういうのが全部東京だ。どうしようもなく東京だ。

 

 

ずっと、こういうことを考えている。卒業論文では飽き足らず修士論文にしようとしたけど、結局なにも言えなくて、でも俺は、いま、俺が生きているということを言いたくて仕方がない。

 

だから、伯母さんが2002年の1月に、あの部屋から、友達の集まる掲示板に書き込んだ文章を見ても、俺はそこから何も、まだなにも実感できないし、実感したような気持ちは殺すし、何もかもが失われていて、見えなくなって、誰も彼もから忘れられたとしても、俺の今は失われるものである、とか、そういうことは、今の俺は考えない。

 

なので、ずっと書いてきたこういう話は、おしまい!別の言葉で。次いくぞ!次!

 

ブログのタイトルを変えました。

 

写真家の金村修が「展示とか写真集のタイトルは洋楽のタイトルっぽいやつにしてる。意味はない」と言っていたのを(わからない、たぶん言ってた。言ってなかったら今俺が考えた)思い出して付けた。思い出したことにも意味はない。

 

意味があるとすれば、という話をしたいと思った。

高校生の頃のブログのタイトルが「Kill All Happiesと僕」だった。それは、プライマル・スクリームの「XTRMNMTR」の一曲目から取った。Exterminator、エクスターミネーター。皆殺し人、撲滅人。暴力だ。戦闘機、アメフトのヘルメット、ミサイル、爆撃。

人のいない街で、人のいない家から流れ続けてるラジオが同時に聞こえてくるみたいな不気味なサンプリング音源にフューチャリスティックなシンセが、ドラムループが重なり、フィルインのあとにバキバキに歪んだマニのベースラインが音像の四分の三は占めるであろう大音量で今までの音を破壊していく、というかっこよさに16歳だった俺はぶちのめされて、1分近くあるそのイントロを100回は聴いて、アルバムのその先になかなか進めなかった。

 

加えて、曲のタイトルである「全ての幸せを殺す、ってマジでカッケー」と思って震えるあまりブログのタイトルにしたのだけど、Happyは形容詞だし、その複数形はHappinessだし、そしてプライマル・スクリームはイギリス人なので英語を間違えるわけもなく、ちゃんと見てみたら曲名は「Kill All H"i"ppies」だった。友達には「あえてHappiesにしてるのがかっこよい」と言われていたので黙っていた。

 

高校受験では勉強してまあまあの進学校に入ったのだけど、勉強を一切しなかった、というか勉強することができなかった、勉強がいきなりレベル高くなりすぎて嫌になった、ので、成績は下から5位圏内を常に移動していた。故に、両親は俺の携帯の使用制限と、家のインターネットの利用禁止を設けていた。客観的に見ても妥当な対策だったと思う。

だから、ブックオフでロッキンオンとスヌーザーとBUZZとクロスビートのバックナンバーを100円で買って、そこに書いてあるアルバムを同じブックオフの100円もしくは280円コーナーで買い、授業中に学ランの袖からイヤホンを出して頬杖をつくふりをしてそれらを聴いていたら、ついに受験シーズンになってしまった。

 

2009年2月13日、明治大学文学部の日本文学科(いま思うと、マジで何も考えずに学科を選んでいた)の試験。朝、父親がペットボトルの温かいカフェオレを駅の近くのコンビニで買ってくれた。それを「頑張れよ」という言葉と共に渡され、絶対に受からないと思いながらも東京に行けることにワクワクしていた自分がとても情けなく思えて、罪悪感に押しつぶされそうになった。

東京へ向かう電車の中では、およそ受験生のものとは思えないくらいきれいな状態の英単語帳を眺めていた。そのうちに、先の罪悪感を埋め合わせようとしたのか、「俺にだって奇跡くらい起こるに違いない」と思いはじめ、降り立った御茶ノ水に雪がぱらついているのを見る頃には、「受験の日には雪が降っていたよね、と4月に新しい友達と話すために、この雪の景色はしっかりと覚えておこう」と考えるまでになっていた。

会場につき、着席をして、奇跡の可能性を少しでも増幅させるために単語帳を開いた。隣の席には、坊主が伸びっぱなしになったような髪型の少年が制服を着て座っていて、なんてダサいやつなんだ、と思っていたのだけど、彼は一向に勉強を開始する気配がない。俺は馬鹿だったので、馬鹿め、とほくそ笑んでいたのだけど、カバンから彼が1枚の写真、おそらく昨年夏に引退した際の部活の集合写真を取り出し、それを眺めながら口を一文字に結んでいるのを見て、俺は奇跡を信じるのをやめた。

あとは祈ること、自分を信じ切ることしかやることがないこいつが落ちて、俺が受かるなんてことがあってはならない、そうであるのならば世界は間違っている、とさえ思った。そして大学には落ちた。

 

それから俺は浪人をして、大学に入り、文字化けをした卒論を出せずに留年をして、大学院に入って、修士論文を書いて、今週には(おそらく)いまいる場所を卒業する。4月からの職は決まっていない。立場がなくなる。いやはや。

 

それでも、いまは楽しい。罪悪感を覚えないのはきっと、仮想敵を全員殺そうとしていたような心の動きが消え去って、もっともすぐれた敵である自分自身と格闘して毎日微力ながらも勝利をおさめているからだ、と信じたい。殺しはしない、蹴り飛ばして舞台から突き落とすくらいの勝利を。

 

・・・・・・・・・

 

 

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修士論文を書いている時は何をするにも息が詰まり、せめてこの息苦しさの記録にと部屋の写真を撮っていた。「これまで議論されてきた部分で論理的にまとまっている箇所よりも、君自身の言葉で書かれているところに惹かれた。ただこれはほとんど論文ではない。おそらくこのテーマで君は生きていくのだろうし、だとするのならば研究以外のところで表現することをやってみてはどうだろうか。葛藤して、板挟みになって、引き裂かれている切実さは見えたが、それが全く昇華されていない」と評価された。壇上で苦笑いするしかなかった。

 

 

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昔住んでいた街に行ったら、昔住んでいたアパートの近くにいる犬が大きくなっていた。

 

 

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初めて築地に行った。場外市場はテーマパークのよう、場内は作業現場。延命処置を受けながらも稼働し続ける市場の奥にシムシティのようなビル群が立ち並んでいる光景は異様だった。

 

 

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主を失って放擲されるがままの生活の残骸 残されていることに意味はない、壊されたとしてもまた意味がない

 

 

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1ヶ月強ぶりに横浜に行った。一年前と同じような暖かさで、友人と再開し、酒を少し飲んだ。学生生活が終わる。

 

 

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 肌寒い程度の気候だったので、久しぶりに自覚的に写真を撮りながら街を歩くも、すぐに飽きる。相変わらずゴミの写真を撮る。2027年にこの街が様変わりしてもゴミは路上に出続けるのだろうか。

2016年11月27日

 いま、いまというのは2017年の3月17日、現在の俺は、とにかくいろいろなものに見切りをつけたくて、とりあえず一番最初に捨てられそうな過去、らしきものを切り刻んではゴミ箱になげすてている。その中で、タイトルの日付に作ったZINEが出てきた。酷いもので、よくこれを世に放とうとしていたなあ、とも思うんだけど、いまの俺は、はたして当時の彼=自分をどの視線で見つめているのだろうか、という契機にはなった。

 

 とにかく何かしらの視座が欲しかったのだと思う。自分がいまやっていること、今考えていることが間違いではないために過去を引用し、しかしノスタルジアではないという自明の感覚を信じてやれるのは自分自身しかいない、そこに折り合いをつける為に、彼はきっとこれを一冊のZINEにまとめたのだろうし、結果としてコンビニのコピー機で一度刷ったまま、戸棚にしまったのだろう。

 

 そのことを、すっかり忘れていた。

 

 あまりにも不憫で無様で、それでいて、2016年11月の自分に対してでさえ過去への眼差しを向けてしまういまの自分に腹が立ったので、ここで供養する。誰のためにも読まれてほしくはない。

 俺はもうちゃんとしまわれた過去を取り出して見るのはやめたい。自分から見ようとしなくても、過去の匂いはそこらじゅうにばら撒かれてるし、それが鼻腔に漂ったときに、今と混ざりあったときに、生き生きとした現実の一部として現れてくるものであって、だから、たぶん、過去「だけ」を見るのは、刺激が強すぎる。自分のものにしても、隣人のものにしても、まったくの他人のものにしても。

 俺が住む部屋には未だに前の住人に宛てた郵便物が届くんだけど、それだって、この部屋に誰かが住んでいたという過去が無理やり侵入してくる感じがしてマジで劇物、キツい。

 

 ただこれがなかなやっかいで、写真を撮リ続ける、ということは過去の生々しさを絶えず生産して焼き付けることでもある。それを反復して自分で見たりする分にはまあいいんだけど、よくないけど、今はもっと言いたいことがあるから省略する。例えばそれを誰か、誰かっていうのは特定の人でも、ZINEでも、展示でも、そういう人に見せる、ときに、過去の劇物っぽさを中和して現在とパラレルなものにして見せるのか、それとも毒として、っていう問題を考えると、それはすべからく、自分にとっての過去という時間の捉え方(向き合い方、ではない、断じて)を考えるという行為につながる。で、しかもぜんぜんわかんない。撮りたいから撮ってるし仕方がない、というのはこの前の記事に書いたけど。どうでもいい。

 

 すべてが不可分に結びつきすぎているし、結びついたまま変化をしていて、その中で自分の立場を表明しようとしたら、まずは「すべて」が「すべて」であることを話さなければいけないし、とても人生は間に合わない。かといって「すべて」から切り離された自分を語るにはあまりにも多すぎるコンテクストに絡め取られていて、やっぱり身動きが取れない。

 俺は、いまがあればそれでいい。過去の腐臭が自分自身にまとわりついている必要も、輝かしい不確定な未来でその腐臭をごまかすのもちがう。今、いま、今日、それを刻んで、次のいまにすべてつなげる。そうやって生きたい。

 

 油そばみたいな前菜になったけど主菜は以下になります。

 

 

 

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数日前、雪が降った。関東では、だいたい50年ぶりくらいに11月の初雪を観測したらしい。最近は2日起きて版日寝て、また起きて、を繰り返している。時間が自分の体から切り離されて周っている感覚に襲われる。 

 

雪は夕方には雨に変わり、大学で酒を飲んだ後、年末のような空気に包まれながら横浜駅行きのバスを待った。脳みそを直接冷やされる気持ちよさに身を任せながら、国道一号線を挟んだ向かいの眼前のガソリンスタンドの電気が落ちるのを見る。

 

バスに乗ると暖房がきいていて、頬のあたりが温度差でチリチリする。今年の二月まで住んでいた、車の音がうるさい、かつて俺の部屋だった部屋に灯りが灯っているのをバスの窓越しに見る。酔いが戻ってくる。

 

雪は溶ける様子も見せずに跡形もなく消えた。昨日は11時に寝て16時に起きた。これを書いているのは朝の5時だ。便宜上、朝とされている時間。自分の外側で回り続ける時間。

 

きっともう二度と現れない無様な景色たち。写真には映ってない誰かと観た景色立ち。彼ら/彼女らとの関係は変わってしまったし、俺もきっと撮った当時とは違う生き物になっている。記憶/記録の上書きを刷るために生きているわけではない。ここにある写真を撮ったときの心地よさを更新したいとは思えない。感傷は過去を再現するために湧き上がるものではない。

 

誰かといた瞬間を暴力的に写真に保存して、それをまとめ、このZINEを手に取った人に押し付ける。記憶を切り刻んで、整理して、いつか来るであろう明日に備えるために。

 

おかしな時期に雪が降るように、住む場所を変えるように、日付が変わるように、俺が過ごしている世界は刻まれていく。俺の身体とは無関係のところで刻まれ続けている世界を少しでも自分のものにするために今できることをすべてやる。

 

――――――――――――――

 

 

というわけでこのZINEも捨てます。さよなら。ありがとう。今日のために。

 

 

2016年4月17日

  眠れなさの訪れと眠気の訪れは似ていてトランプをショットガンシャッフルするようにそれは交互に訪れる。速度は酩酊の瞬きに近く、向精神薬をブラックニッカで飲み下した先には言語より速く明滅する記憶とそれに付随する記憶地味た感情、情動、身を包むのは寂寞。翌朝に持ち越そうとした感傷は5時まで続き、生活リズムの不調へともつれ込み窓の外の人のざわめきはクソ重い脳を真綿で締められるがごとく耳に届く。ああもうどしようもないなと思いながらコーヒーを入れて朝食とも昼食とも呼べないトーストを流し込んで安いジーンズに脚を通して1日を始めようとするも既にSNSの中の日常は終焉へと向かいつつあり、ああ、今日も1日だ、と言い訳じみた料理と散歩をする。その繰り返しに。
街で桜を見てもそれを送信する相手がいない、だからインスタグラムに吐き出して溜まっていくlikeには既に心は動かない、承認欲求はどこかへ行ってしまって、ここではないどこかへ思いをはせる癖は論理的な言葉とともに強度を増して生活の隅へと侵入し、ともすれば一生この飢餓感と向き合っていかなければいけないのかもしれないという不安を消す手立てを俺は知らずに、折り合いをつけるとはどういうことなのかということをマイナビリクナビを見ながら考える。25歳になった。幸せをトイレットペーパーになぞらえて考えていた17歳と何が変わったのかと言えばヒゲの伸びる速度とカサつく肌と友人の数と知っている音楽くらいなものなのかもしれず、ああ、最近はなんだか楽しいことを受け入れる手立てすら失っている、そのあとの禁断症状の大きさを想像できる程度には思考が育ち、磨耗している。

マンションの写真

2011年の2月に一眼レフを買ってからずっと撮り続けているものがあって、何故それを撮り続けるのかは未だにわからない。自分が写真を撮る理由も、撮っている理由もまるでわからないまま6年がすぎ、データがHDDに溜まっていくばかりで、本当に何にもならずに写真を撮っているのだけど、その中で唯一、言葉にして疑問を持てるのが、「このマンションの写真を撮る理由」だ。

疑問は行動の理由にはならない。理由は意味の背後に必ずしも存在しない。科学以外においては。

 

このマンションに住んでいた伯母さんは僕が14歳のとき、2004年に50歳で亡くなった。僕にとって、東京に行くということは、しばらくの間このマンションに行くことと意味を同じにしていた。

 

伯母さんが死んでもこのマンションは存在し、東京に住む僕はそのマンションを見る、ことができる。そして見に行く。写真を撮る。今日はかっこよく撮れたな、とか、今日は空が曇っていていいな、とか、やっぱり写真は昼間撮ると楽しいな、設定を変えてみよう、とか、そういうことを考えながら。そのとき、過去は抜け落ちている。ただ、写真を撮ったその瞬間は、撮られた瞬間に過去になる。それがどんどん溜まっていく。

東京の中にいなかったころの僕にとっての「東京」の上に、新しい過去を覆い被せていく。

このマンションは伯母さんの墓ではないし、よく遊びに行く街でも目立つ建物だし、たぶんいろいろ、僕はいろいろ考えながら、東京でいろいろやってくんだろうな、みたいなことを考える。意味はない。意味がないから撮り続けてるのかもしれない。

このマンションを見ると安心する。何も考えなくてよくなる。だから写真を撮る余裕が生まれる、そういう話かもしれない。

なんでもいいや。本当、ぜんぶ、なんでもいい。

 

 

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