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ブログのタイトルを変えました。

 

写真家の金村修が「展示とか写真集のタイトルは洋楽のタイトルっぽいやつにしてる。意味はない」と言っていたのを(わからない、たぶん言ってた。言ってなかったら今俺が考えた)思い出して付けた。思い出したことにも意味はない。

 

意味があるとすれば、という話をしたいと思った。

高校生の頃のブログのタイトルが「Kill All Happiesと僕」だった。それは、プライマル・スクリームの「XTRMNMTR」の一曲目から取った。Exterminator、エクスターミネーター。皆殺し人、撲滅人。暴力だ。戦闘機、アメフトのヘルメット、ミサイル、爆撃。

人のいない街で、人のいない家から流れ続けてるラジオが同時に聞こえてくるみたいな不気味なサンプリング音源にフューチャリスティックなシンセが、ドラムループが重なり、フィルインのあとにバキバキに歪んだマニのベースラインが音像の四分の三は占めるであろう大音量で今までの音を破壊していく、というかっこよさに16歳だった俺はぶちのめされて、1分近くあるそのイントロを100回は聴いて、アルバムのその先になかなか進めなかった。

 

加えて、曲のタイトルである「全ての幸せを殺す、ってマジでカッケー」と思って震えるあまりブログのタイトルにしたのだけど、Happyは形容詞だし、その複数形はHappinessだし、そしてプライマル・スクリームはイギリス人なので英語を間違えるわけもなく、ちゃんと見てみたら曲名は「Kill All H"i"ppies」だった。友達には「あえてHappiesにしてるのがかっこよい」と言われていたので黙っていた。

 

高校受験では勉強してまあまあの進学校に入ったのだけど、勉強を一切しなかった、というか勉強することができなかった、勉強がいきなりレベル高くなりすぎて嫌になった、ので、成績は下から5位圏内を常に移動していた。故に、両親は俺の携帯の使用制限と、家のインターネットの利用禁止を設けていた。客観的に見ても妥当な対策だったと思う。

だから、ブックオフでロッキンオンとスヌーザーとBUZZとクロスビートのバックナンバーを100円で買って、そこに書いてあるアルバムを同じブックオフの100円もしくは280円コーナーで買い、授業中に学ランの袖からイヤホンを出して頬杖をつくふりをしてそれらを聴いていたら、ついに受験シーズンになってしまった。

 

2009年2月13日、明治大学文学部の日本文学科(いま思うと、マジで何も考えずに学科を選んでいた)の試験。朝、父親がペットボトルの温かいカフェオレを駅の近くのコンビニで買ってくれた。それを「頑張れよ」という言葉と共に渡され、絶対に受からないと思いながらも東京に行けることにワクワクしていた自分がとても情けなく思えて、罪悪感に押しつぶされそうになった。

東京へ向かう電車の中では、およそ受験生のものとは思えないくらいきれいな状態の英単語帳を眺めていた。そのうちに、先の罪悪感を埋め合わせようとしたのか、「俺にだって奇跡くらい起こるに違いない」と思いはじめ、降り立った御茶ノ水に雪がぱらついているのを見る頃には、「受験の日には雪が降っていたよね、と4月に新しい友達と話すために、この雪の景色はしっかりと覚えておこう」と考えるまでになっていた。

会場につき、着席をして、奇跡の可能性を少しでも増幅させるために単語帳を開いた。隣の席には、坊主が伸びっぱなしになったような髪型の少年が制服を着て座っていて、なんてダサいやつなんだ、と思っていたのだけど、彼は一向に勉強を開始する気配がない。俺は馬鹿だったので、馬鹿め、とほくそ笑んでいたのだけど、カバンから彼が1枚の写真、おそらく昨年夏に引退した際の部活の集合写真を取り出し、それを眺めながら口を一文字に結んでいるのを見て、俺は奇跡を信じるのをやめた。

あとは祈ること、自分を信じ切ることしかやることがないこいつが落ちて、俺が受かるなんてことがあってはならない、そうであるのならば世界は間違っている、とさえ思った。そして大学には落ちた。

 

それから俺は浪人をして、大学に入り、文字化けをした卒論を出せずに留年をして、大学院に入って、修士論文を書いて、今週には(おそらく)いまいる場所を卒業する。4月からの職は決まっていない。立場がなくなる。いやはや。

 

それでも、いまは楽しい。罪悪感を覚えないのはきっと、仮想敵を全員殺そうとしていたような心の動きが消え去って、もっともすぐれた敵である自分自身と格闘して毎日微力ながらも勝利をおさめているからだ、と信じたい。殺しはしない、蹴り飛ばして舞台から突き落とすくらいの勝利を。

 

・・・・・・・・・

 

 

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修士論文を書いている時は何をするにも息が詰まり、せめてこの息苦しさの記録にと部屋の写真を撮っていた。「これまで議論されてきた部分で論理的にまとまっている箇所よりも、君自身の言葉で書かれているところに惹かれた。ただこれはほとんど論文ではない。おそらくこのテーマで君は生きていくのだろうし、だとするのならば研究以外のところで表現することをやってみてはどうだろうか。葛藤して、板挟みになって、引き裂かれている切実さは見えたが、それが全く昇華されていない」と評価された。壇上で苦笑いするしかなかった。

 

 

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昔住んでいた街に行ったら、昔住んでいたアパートの近くにいる犬が大きくなっていた。

 

 

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初めて築地に行った。場外市場はテーマパークのよう、場内は作業現場。延命処置を受けながらも稼働し続ける市場の奥にシムシティのようなビル群が立ち並んでいる光景は異様だった。

 

 

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主を失って放擲されるがままの生活の残骸 残されていることに意味はない、壊されたとしてもまた意味がない

 

 

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1ヶ月強ぶりに横浜に行った。一年前と同じような暖かさで、友人と再開し、酒を少し飲んだ。学生生活が終わる。

 

 

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 肌寒い程度の気候だったので、久しぶりに自覚的に写真を撮りながら街を歩くも、すぐに飽きる。相変わらずゴミの写真を撮る。2027年にこの街が様変わりしてもゴミは路上に出続けるのだろうか。

2016年11月27日

 いま、いまというのは2017年の3月17日、現在の俺は、とにかくいろいろなものに見切りをつけたくて、とりあえず一番最初に捨てられそうな過去、らしきものを切り刻んではゴミ箱になげすてている。その中で、タイトルの日付に作ったZINEが出てきた。酷いもので、よくこれを世に放とうとしていたなあ、とも思うんだけど、いまの俺は、はたして当時の彼=自分をどの視線で見つめているのだろうか、という契機にはなった。

 

 とにかく何かしらの視座が欲しかったのだと思う。自分がいまやっていること、今考えていることが間違いではないために過去を引用し、しかしノスタルジアではないという自明の感覚を信じてやれるのは自分自身しかいない、そこに折り合いをつける為に、彼はきっとこれを一冊のZINEにまとめたのだろうし、結果としてコンビニのコピー機で一度刷ったまま、戸棚にしまったのだろう。

 

 そのことを、すっかり忘れていた。

 

 あまりにも不憫で無様で、それでいて、2016年11月の自分に対してでさえ過去への眼差しを向けてしまういまの自分に腹が立ったので、ここで供養する。誰のためにも読まれてほしくはない。

 俺はもうちゃんとしまわれた過去を取り出して見るのはやめたい。自分から見ようとしなくても、過去の匂いはそこらじゅうにばら撒かれてるし、それが鼻腔に漂ったときに、今と混ざりあったときに、生き生きとした現実の一部として現れてくるものであって、だから、たぶん、過去「だけ」を見るのは、刺激が強すぎる。自分のものにしても、隣人のものにしても、まったくの他人のものにしても。

 俺が住む部屋には未だに前の住人に宛てた郵便物が届くんだけど、それだって、この部屋に誰かが住んでいたという過去が無理やり侵入してくる感じがしてマジで劇物、キツい。

 

 ただこれがなかなやっかいで、写真を撮リ続ける、ということは過去の生々しさを絶えず生産して焼き付けることでもある。それを反復して自分で見たりする分にはまあいいんだけど、よくないけど、今はもっと言いたいことがあるから省略する。例えばそれを誰か、誰かっていうのは特定の人でも、ZINEでも、展示でも、そういう人に見せる、ときに、過去の劇物っぽさを中和して現在とパラレルなものにして見せるのか、それとも毒として、っていう問題を考えると、それはすべからく、自分にとっての過去という時間の捉え方(向き合い方、ではない、断じて)を考えるという行為につながる。で、しかもぜんぜんわかんない。撮りたいから撮ってるし仕方がない、というのはこの前の記事に書いたけど。どうでもいい。

 

 すべてが不可分に結びつきすぎているし、結びついたまま変化をしていて、その中で自分の立場を表明しようとしたら、まずは「すべて」が「すべて」であることを話さなければいけないし、とても人生は間に合わない。かといって「すべて」から切り離された自分を語るにはあまりにも多すぎるコンテクストに絡め取られていて、やっぱり身動きが取れない。

 俺は、いまがあればそれでいい。過去の腐臭が自分自身にまとわりついている必要も、輝かしい不確定な未来でその腐臭をごまかすのもちがう。今、いま、今日、それを刻んで、次のいまにすべてつなげる。そうやって生きたい。

 

 油そばみたいな前菜になったけど主菜は以下になります。

 

 

 

――――――――――――――

 

数日前、雪が降った。関東では、だいたい50年ぶりくらいに11月の初雪を観測したらしい。最近は2日起きて版日寝て、また起きて、を繰り返している。時間が自分の体から切り離されて周っている感覚に襲われる。 

 

雪は夕方には雨に変わり、大学で酒を飲んだ後、年末のような空気に包まれながら横浜駅行きのバスを待った。脳みそを直接冷やされる気持ちよさに身を任せながら、国道一号線を挟んだ向かいの眼前のガソリンスタンドの電気が落ちるのを見る。

 

バスに乗ると暖房がきいていて、頬のあたりが温度差でチリチリする。今年の二月まで住んでいた、車の音がうるさい、かつて俺の部屋だった部屋に灯りが灯っているのをバスの窓越しに見る。酔いが戻ってくる。

 

雪は溶ける様子も見せずに跡形もなく消えた。昨日は11時に寝て16時に起きた。これを書いているのは朝の5時だ。便宜上、朝とされている時間。自分の外側で回り続ける時間。

 

きっともう二度と現れない無様な景色たち。写真には映ってない誰かと観た景色立ち。彼ら/彼女らとの関係は変わってしまったし、俺もきっと撮った当時とは違う生き物になっている。記憶/記録の上書きを刷るために生きているわけではない。ここにある写真を撮ったときの心地よさを更新したいとは思えない。感傷は過去を再現するために湧き上がるものではない。

 

誰かといた瞬間を暴力的に写真に保存して、それをまとめ、このZINEを手に取った人に押し付ける。記憶を切り刻んで、整理して、いつか来るであろう明日に備えるために。

 

おかしな時期に雪が降るように、住む場所を変えるように、日付が変わるように、俺が過ごしている世界は刻まれていく。俺の身体とは無関係のところで刻まれ続けている世界を少しでも自分のものにするために今できることをすべてやる。

 

――――――――――――――

 

 

というわけでこのZINEも捨てます。さよなら。ありがとう。今日のために。

 

 

2016/4/17

  眠れなさの訪れと眠気の訪れは似ていてトランプをショットガンシャッフルするようにそれは交互に訪れる。速度は酩酊の瞬きに近く、向精神薬をブラックニッカで飲み下した先には言語より速く明滅する記憶とそれに付随する記憶地味た感情、情動、身を包むのは寂寞。翌朝に持ち越そうとした感傷は5時まで続き、生活リズムの不調へともつれ込み窓の外の人のざわめきはクソ重い脳を真綿で締められるがごとく耳に届く。ああもうどしようもないなと思いながらコーヒーを入れて朝食とも昼食とも呼べないトーストを流し込んで安いジーンズに脚を通して1日を始めようとするも既にSNSの中の日常は終焉へと向かいつつあり、ああ、今日も1日だ、と言い訳じみた料理と散歩をする。その繰り返しに。
街で桜を見てもそれを送信する相手がいない、だからインスタグラムに吐き出して溜まっていくlikeには既に心は動かない、承認欲求はどこかへ行ってしまって、ここではないどこかへ思いをはせる癖は論理的な言葉とともに強度を増して生活の隅へと侵入し、ともすれば一生この飢餓感と向き合っていかなければいけないのかもしれないという不安を消す手立てを俺は知らずに、折り合いをつけるとはどういうことなのかということをマイナビリクナビを見ながら考える。25歳になった。幸せをトイレットペーパーになぞらえて考えていた17歳と何が変わったのかと言えばヒゲの伸びる速度とカサつく肌と友人の数と知っている音楽くらいなものなのかもしれず、ああ、最近はなんだか楽しいことを受け入れる手立てすら失っている、そのあとの禁断症状の大きさを想像できる程度には思考が育ち、磨耗している。

マンションの写真

2011年の2月に一眼レフを買ってからずっと撮り続けているものがあって、何故それを撮り続けるのかは未だにわからない。自分が写真を撮る理由も、撮っている理由もまるでわからないまま6年がすぎ、データがHDDに溜まっていくばかりで、本当に何にもならずに写真を撮っているのだけど、その中で唯一、言葉にして疑問を持てるのが、「このマンションの写真を撮る理由」だ。

疑問は行動の理由にはならない。理由は意味の背後に必ずしも存在しない。科学以外においては。

 

このマンションに住んでいた伯母さんは僕が14歳のとき、2014年に50歳で亡くなった。僕にとって、東京に行くということは、しばらくの間このマンションに行くことと意味を同じにしていた。

 

伯母さんが死んでもこのマンションは存在し、東京に住む僕はそのマンションを見る、ことができる。そして見に行く。写真を撮る。今日はかっこよく撮れたな、とか、今日は空が曇っていていいな、とか、やっぱり写真は昼間撮ると楽しいな、設定を変えてみよう、とか、そういうことを考えながら。そのとき、過去は抜け落ちている。ただ、写真を撮ったその瞬間は、撮られた瞬間に過去になる。それがどんどん溜まっていく。

東京の中にいなかったころの僕にとっての「東京」の上に、新しい過去を覆い被せていく。

このマンションは伯母さんの墓ではないし、よく遊びに行く街でも目立つ建物だし、たぶんいろいろ、僕はいろいろ考えながら、東京でいろいろやってくんだろうな、みたいなことを考える。意味はない。意味がないから撮り続けてるのかもしれない。

このマンションを見ると安心する。何も考えなくてよくなる。だから写真を撮る余裕が生まれる、そういう話かもしれない。

なんでもいいや。本当、ぜんぶ、なんでもいい。

 

 

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上京(Reprise)

大学受かったんだ、おめでとう。もうこっち来てるの?どこ住んでるの?東中野か、いいとこだよ。おれ新井薬師だから近いね。いいじゃん、自転車買いなよ。いろいろ行けるよ。あと、桜が咲いたら中目黒にいくといいよ。

 

合格発表の日、僕のツイッターを見た友人からかかってきた電話でそんなことを言われた。高校時代の成績が低空飛行だった僕は、同級生たちより一年遅れで大学に受かった。去年の夏に再会した彼は確かに垢抜けていて、でもきっとそれは勇気の問題なのだと思う。僕の住んでいた街で垢抜けた格好をするのは勇気がいる。それに必要なものを買うためにターミナル駅のセレクトショップに行くのも勇気がいる。そこにお金を使うことも勇気だ。マクドナルドで、お腹を満たすために安いやつを食べることを選択せずに、季節限定ハンバーガーのセットを買う時のような、そういう勇気だ。その勇気を駆使して、彼は垢抜けて、その勇気をひた隠しにして僕に電話をしてきたのだろう。それはきっと、とてもむずかしいことなんだろうな、と想像する。

僕は東京の大学に受かり、今はダンボールが積まれた部屋で寝転がっている。これからはたくさん勇気を出さないといけない。

 

昼過ぎにはつくから、と親から連絡が入る。 

 

荷物をほどくのを手伝われるのは嫌だった。僕は、生まれ育った街を出る、ということをひとつの切断にしたかった。だからゆうべは学習机を見ながら泣こうとしたりしたんだけど、結局感傷は湧いてこなくて、だから、あとで泣けるようにしておこうと思って写真をたくさん撮った。それなのに、一度別れたはずの親が、僕の勇気の世界の中に再び入ってくるのは少し怖い。

 

ゆうべは引っ越しのトラックと一緒に東京について、オリジン弁当ホイコーロー弁当を買って、それを床に置いて食べた。部屋は静かで、携帯電話のスピーカーで音楽を流してみたけど、寂しさが浮き彫りになるみたいですぐにとめてしまった。コンビニに行ってお酒を買おうとしたけど、そんなことはやったことがないのでやめた。コーヒー牛乳を買った。レシートを捨てようとして、そこに東京の住所が印刷されているのを見て、折りたたんで財布にしまった。これから自分が過ごすことになる街を歩く。自分の中から湧いてくるのではない、外側から、孤独に包まれてしまって、窒息しそうになったので部屋に戻り、寝袋にくるまって眠った。

 

その孤独の予感を、親は打ち消しにやってくる。

 

僕はこれから、友人のように、少しずつ勇気を出しながら東京に溶けていくのだろう。東中野新井薬師という町が近いことを知るのだろう。さまざまな街のことをしるのだろう。桜が咲いたら中目黒にいくのだろう。毎年毎年、いろんな桜を、まだ知らない人たちと、まだ知らない気持ちで観たりするのだろう。そして、東京に溶けて自分の輪郭が消えそうになったときに、今日を懐かしむのだろう。懐かしんで、少しだけ輪郭を取り戻して、また勇気を出して東京に入っていく。そういうときのために、僕は昨日、自分が使った学習机の写真を撮ったのだ。

 

だから、もう、親は、僕の生まれた街のように、ただそこにある、安心するための存在であってほしい。ゆうべ、孤独の中に見えた勇気を出さなきゃならない理由を見失いたくないのに、安心が東京に入ってきたら、僕は、これからの僕になれなくなってしまう。

 

 

カーテンのついていない窓から光が入ってくる。開けた窓から入る風は少し冷たい。窓の外をあるく親子連れの声が聞こえる。隣の部屋のベランダで洗濯機がまわっている。クローゼットにかかった服を見る。垢抜けていない服たち。入学式で着るスーツ。垢抜けていない僕。ゆうべのレシートをいつまでとっておくのだろうか。携帯電話を見る。東京、桜は、咲き始めているところもあるらしい。友人が買ったブーツの写真。シーリングライトのついている天井が低い。チャイムが鳴ったときのために、気だるそうな顔を作る準備を始めて、1人で少し笑ってしまった。

ノスタルジア、サウダージ、東京

1:小林信彦と「町殺し」

 作家・小林信彦は自身の東京生活を『私説東京放浪記』(1992a)『私説東京繁昌記』(1992b) 『昭和の東京、平成の東京』の三冊に記している。「私説」とあるように、エッセイの形をとってはいるのだが、その文体はすべて異なる。『私説東京繁昌期』では写真家の荒木経惟を連れて、記憶を頼りに東京を放浪した際の文章に精密なリサーチの結果が折り合ったルポタージュである。そこに、荒木の写真が唐突に差し込まれる。次ぐ『〜放浪記』では、かつて住んでいた街から、何故か脚を運んでいなかった街へと辿り歩き、その場所の現在の様子と過去の記憶を偏見に満ち溢れた文体で記す。(枝川公一解説「小林信彦ワールドの、柔らかい偏見」小林信彦 197)

 

ついでに書いておけば、ぼくも(1961年ごろ)、その(セントラル・アパート)近くに住んでいたのだった。風呂がなかったので、銭湯に通っていたが、その銭湯〈桜湯〉はげんざいも(原文ママ)存在していて、原宿=オシャレと考える人たちをおどろかしている。(小林 1992a 36)

 

 最後となる『昭和の〜』においては、小林が昭和〜平成に執筆した原稿の数々を寄せ集め、その文を記した当時一冊の著作としてまとめるつもりがなかったものたちが再び集まり、そこに昭和/平成という断絶を差し込むことによって、「そのものの多くが消滅したことを証明」(梅本洋一 2006 944)しているようにも読み取れる。
 小林がこの三部作を書き記す動機となったものを、彼自身は「町殺し」と呼んでいる。梅本洋一が、小林的なルポタージュの目線を建築に向けることでなぞった『建築を読む』の中で、「町殺し」の解説をしているので概論をまとめる。


「町殺し」は、「明治維新後の東京」が経た、「空間的に、そして景観の面で四回の大きな変革」のことである。一回目が1923年の関東大震災。これにより首都圏は大打撃を受け、後の「帝都復興計画」につながっていく。この時分に小林は生まれていないので、彼が「町殺し」と呼ぶのは二回目の東京大空襲からである。B-29は東京の三分の一以上を焼き尽くす。日本橋区両国(現・中央区日本橋)に住んでいた小林はこの時住居を焼かれている。戦後、東京には占領軍の建物や集合住宅が立ち並んでいく。三回目は1964年のオリンピックである。首都高が整備され、高層ビルの建築が始まる。四回目は1990年前後のバブル期である。不動産がその目的とは別のところで投資の対象となる。結果、バブルが崩壊し、多くの不良債権化した土地は空き地となり、それらの土地を民間が買い上げ、例えば六本木ヒルズのような空間が立ち上がるようになる。(同 82-87)

 

 梅本も指摘しているように、小林は三部作目である『昭和の〜』の「ブックガイドとしての〈あとがき〉」にこのように記している。

 

 ぼくの〈こだわり(どうもいやな言葉ですが)〉は、たぶん、そうした〈生まれた町の消滅〉
からきているのではないかと思います。
 ですから、失われた町、もの、人への思いは、ぼくの場合、おそらく、ノスタルジーとは程遠いでしょう。
〈消えた町への生存者〉の東京の証言、記録への執念、という面が強いのではないでしょうか。

 

 小林が「これはノスタルジーとは程遠い」と述べるとき、そこに自分がかつて過ごした街に対する甘美なトーンを見出すことは難しい。
 ノスタルジーを抱いている際の自らの状態とは、「過去について苦しかったりいやな想いをしたかもしれないあらゆるものを、ふんわり優しく覆う一種のアウラのなかに包み込んでしまう傾向があ」り、「人生の出来事や場所の記憶をどれほど奔放に再構成してみても、結局のところ、それらの記憶は最小限、物事が『本当はこうであった』という、ことばには言い表せないが、しつこくつきまとうある種の感じによって制約されるものである」(フレッド・デイヴィス 1979=1990 14,22)。前述のように『〜繁昌期』の中で、小林は、かつての記憶が過ぎ去った過去への感情ではない=『本当はこうであった』という感覚に制約されてはいない、ということを自ら立証すべく、資料を蒐集し、実際にそうであった、という段階へ押し上げるために「記録への執念」を稼働させるのである。

 

2:サウダージ

 社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースもまた、自らの感情をノスタルジアとは異なるものであると述べている。『悲しき熱帯』(1955=2001)の中に描かれた新大陸を訪れた際のレヴィ=ストロースは、そこを離れたあとにブラジル(サンパウロ)に対する言葉として、「サウダージ」という単語を選んだ。〈サウダージ〉とは、「過ぎ去ったものや遠い昔への感情」や、「もうそこに自分がいないのだという悲しみ」を意味する〈ノスタルジア〉とは区別される感覚である。レヴィ=ストロースは、サンパウロを思う時、「ある特定の場所を回想したり再訪したりしたときに、この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締め付けられるような心の痛みを喚起しようとした」という。(クロード・レヴィ=ストロースサンパウロへのサウダージ」今福龍太訳 クロード・レヴィ=ストロース,今福龍太「サンパウロへのサウダージ」2008 3)


 ノスタルジアは、それが社会広範に行き渡っている集合的イメージから喚起されるもの(例えば、1999年のヒットナンバーを聴いたときに呼び起こされる感情)にせよ、「その源泉が特定の個人の生活史に見いだされる」ものにせよ、「象徴的な大事は、われわれの場合ほとんど主観的な一般性と特殊性のいずれのレベルにおいても重複したり、織り交ざったり、変形させられたりしている」のである。その感情を抱いている本人が「この感情は私個人にとって重要である」と考えている場合、それは本人にとってのアイデンティティの基礎をなしてはいるが、必ずしも共有不可能なものではないのである。(デイヴィス 176-78)
 今一度、ここでレヴィ=ストロースの〈サウダージ〉と〈ノスタルジア〉の間に境界線を引こう。「懐かしさ」は過去への感情であるが、〈サウダージ〉はそれを呼び起こす、既に失われた時間と、今、ここにいる自分とがもう二度と交わらない、という感情である。レヴィ=ストロースがフランスから海を渡って訪れたサンパウロは、訪れたその時から急速な荒廃と都市化、そしていずれ必ず不在となる「熱帯」をその内部に孕んでいた。
 レヴィ=ストロースの〈サウダージ〉は小林の〈これはノスタルジアではない〉という言葉と共鳴しあう。小林が焼夷弾によって家を焼かれた1945年から始まり、それを含めて3回目撃することになる「町殺し」は、単に見慣れた風景が死んでしまったことへの郷愁を覚えさせる事象ではない。『〜放浪記』の文庫版あとがき(1995)で小林はこのように述べている。「われわれは異常な社会に住んでいる。(…)わずか三年のあいだに、これほど、さまざまな細部が古くなるというのは、日本でなければありえないことだと思う。(…)〈官〉の暴挙に対して、人々は驚くほど黙っている——〈異常な社会〉とぼくが感じるのはそういうことである。(…)こうした文章を書くのは、これがおしまいになるだろう。今後、東京を描くとすれば、すべて小説でやりたいと思う」(小林 1992=1995 194-5)


 「未来についてはいかがですか?」と問われた時のレヴィ=ストロースの答えた「その種の質問はしないでください。今の世界は、もはや私の属する世界ではありません。私の知っている、私の愛した世界は、人口25億の世界です。(…)明日の世界に着いて、何か予言することなど到底不可能です……。」(レヴィ=ストロース 2008)というあまりにも物悲しく、痛切に響く言葉と、上の小林の発言は、我々の想像力の行く先を残しながら、重なり合う。


 『〜繁昌記』で小林が荒木とビールを飲んだ原宿のセントラル・アパートも、今は存在しないのだ。(小林 1992b 62) 小林の眼前で繰り返された「町殺し」や、予め失われることが約束され、そして直線的な時間の中で失われている熱帯の姿と対峙したレヴィ=ストロースにとって突き放すべき時間となった世界の中で、私たちは生きている。私が生きる時間、私たちが生きる都市、あるいは都市という時間の表層部で生きさせられる私たち。どこへ向かい、どこにあり、そしてどこから来たのか、などという問いかけが虚空に響くような感覚をもたらすものの正体は、もしかしたら霞のようなものなのかもしれない。

 

 

小林信彦荒木経惟, 1992-2002 『私説東京繁昌記』筑摩書房

小林信彦,1992=1995『私説東京放浪記』筑摩書房

小林信彦,2002,『昭和の東京、平成の東京』,筑摩書房

フレッド・デイヴィス1999『ノスタルジア社会学世界思想社