ノスタルジア、サウダージ、東京

1:小林信彦と「町殺し」

 作家・小林信彦は自身の東京生活を『私説東京放浪記』(1992a)『私説東京繁昌記』(1992b) 『昭和の東京、平成の東京』の三冊に記している。「私説」とあるように、エッセイの形をとってはいるのだが、その文体はすべて異なる。『私説東京繁昌期』では写真家の荒木経惟を連れて、記憶を頼りに東京を放浪した際の文章に精密なリサーチの結果が折り合ったルポタージュである。そこに、荒木の写真が唐突に差し込まれる。次ぐ『〜放浪記』では、かつて住んでいた街から、何故か脚を運んでいなかった街へと辿り歩き、その場所の現在の様子と過去の記憶を偏見に満ち溢れた文体で記す。(枝川公一解説「小林信彦ワールドの、柔らかい偏見」小林信彦 197)

 

ついでに書いておけば、ぼくも(1961年ごろ)、その(セントラル・アパート)近くに住んでいたのだった。風呂がなかったので、銭湯に通っていたが、その銭湯〈桜湯〉はげんざいも(原文ママ)存在していて、原宿=オシャレと考える人たちをおどろかしている。(小林 1992a 36)

 

 最後となる『昭和の〜』においては、小林が昭和〜平成に執筆した原稿の数々を寄せ集め、その文を記した当時一冊の著作としてまとめるつもりがなかったものたちが再び集まり、そこに昭和/平成という断絶を差し込むことによって、「そのものの多くが消滅したことを証明」(梅本洋一 2006 944)しているようにも読み取れる。
 小林がこの三部作を書き記す動機となったものを、彼自身は「町殺し」と呼んでいる。梅本洋一が、小林的なルポタージュの目線を建築に向けることでなぞった『建築を読む』の中で、「町殺し」の解説をしているので概論をまとめる。


「町殺し」は、「明治維新後の東京」が経た、「空間的に、そして景観の面で四回の大きな変革」のことである。一回目が1923年の関東大震災。これにより首都圏は大打撃を受け、後の「帝都復興計画」につながっていく。この時分に小林は生まれていないので、彼が「町殺し」と呼ぶのは二回目の東京大空襲からである。B-29は東京の三分の一以上を焼き尽くす。日本橋区両国(現・中央区日本橋)に住んでいた小林はこの時住居を焼かれている。戦後、東京には占領軍の建物や集合住宅が立ち並んでいく。三回目は1964年のオリンピックである。首都高が整備され、高層ビルの建築が始まる。四回目は1990年前後のバブル期である。不動産がその目的とは別のところで投資の対象となる。結果、バブルが崩壊し、多くの不良債権化した土地は空き地となり、それらの土地を民間が買い上げ、例えば六本木ヒルズのような空間が立ち上がるようになる。(同 82-87)

 

 梅本も指摘しているように、小林は三部作目である『昭和の〜』の「ブックガイドとしての〈あとがき〉」にこのように記している。

 

 ぼくの〈こだわり(どうもいやな言葉ですが)〉は、たぶん、そうした〈生まれた町の消滅〉
からきているのではないかと思います。
 ですから、失われた町、もの、人への思いは、ぼくの場合、おそらく、ノスタルジーとは程遠いでしょう。
〈消えた町への生存者〉の東京の証言、記録への執念、という面が強いのではないでしょうか。

 

 小林が「これはノスタルジーとは程遠い」と述べるとき、そこに自分がかつて過ごした街に対する甘美なトーンを見出すことは難しい。
 ノスタルジーを抱いている際の自らの状態とは、「過去について苦しかったりいやな想いをしたかもしれないあらゆるものを、ふんわり優しく覆う一種のアウラのなかに包み込んでしまう傾向があ」り、「人生の出来事や場所の記憶をどれほど奔放に再構成してみても、結局のところ、それらの記憶は最小限、物事が『本当はこうであった』という、ことばには言い表せないが、しつこくつきまとうある種の感じによって制約されるものである」(フレッド・デイヴィス 1979=1990 14,22)。前述のように『〜繁昌期』の中で、小林は、かつての記憶が過ぎ去った過去への感情ではない=『本当はこうであった』という感覚に制約されてはいない、ということを自ら立証すべく、資料を蒐集し、実際にそうであった、という段階へ押し上げるために「記録への執念」を稼働させるのである。

 

2:サウダージ

 社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースもまた、自らの感情をノスタルジアとは異なるものであると述べている。『悲しき熱帯』(1955=2001)の中に描かれた新大陸を訪れた際のレヴィ=ストロースは、そこを離れたあとにブラジル(サンパウロ)に対する言葉として、「サウダージ」という単語を選んだ。〈サウダージ〉とは、「過ぎ去ったものや遠い昔への感情」や、「もうそこに自分がいないのだという悲しみ」を意味する〈ノスタルジア〉とは区別される感覚である。レヴィ=ストロースは、サンパウロを思う時、「ある特定の場所を回想したり再訪したりしたときに、この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締め付けられるような心の痛みを喚起しようとした」という。(クロード・レヴィ=ストロースサンパウロへのサウダージ」今福龍太訳 クロード・レヴィ=ストロース,今福龍太「サンパウロへのサウダージ」2008 3)


 ノスタルジアは、それが社会広範に行き渡っている集合的イメージから喚起されるもの(例えば、1999年のヒットナンバーを聴いたときに呼び起こされる感情)にせよ、「その源泉が特定の個人の生活史に見いだされる」ものにせよ、「象徴的な大事は、われわれの場合ほとんど主観的な一般性と特殊性のいずれのレベルにおいても重複したり、織り交ざったり、変形させられたりしている」のである。その感情を抱いている本人が「この感情は私個人にとって重要である」と考えている場合、それは本人にとってのアイデンティティの基礎をなしてはいるが、必ずしも共有不可能なものではないのである。(デイヴィス 176-78)
 今一度、ここでレヴィ=ストロースの〈サウダージ〉と〈ノスタルジア〉の間に境界線を引こう。「懐かしさ」は過去への感情であるが、〈サウダージ〉はそれを呼び起こす、既に失われた時間と、今、ここにいる自分とがもう二度と交わらない、という感情である。レヴィ=ストロースがフランスから海を渡って訪れたサンパウロは、訪れたその時から急速な荒廃と都市化、そしていずれ必ず不在となる「熱帯」をその内部に孕んでいた。
 レヴィ=ストロースの〈サウダージ〉は小林の〈これはノスタルジアではない〉という言葉と共鳴しあう。小林が焼夷弾によって家を焼かれた1945年から始まり、それを含めて3回目撃することになる「町殺し」は、単に見慣れた風景が死んでしまったことへの郷愁を覚えさせる事象ではない。『〜放浪記』の文庫版あとがき(1995)で小林はこのように述べている。「われわれは異常な社会に住んでいる。(…)わずか三年のあいだに、これほど、さまざまな細部が古くなるというのは、日本でなければありえないことだと思う。(…)〈官〉の暴挙に対して、人々は驚くほど黙っている——〈異常な社会〉とぼくが感じるのはそういうことである。(…)こうした文章を書くのは、これがおしまいになるだろう。今後、東京を描くとすれば、すべて小説でやりたいと思う」(小林 1992=1995 194-5)


 「未来についてはいかがですか?」と問われた時のレヴィ=ストロースの答えた「その種の質問はしないでください。今の世界は、もはや私の属する世界ではありません。私の知っている、私の愛した世界は、人口25億の世界です。(…)明日の世界に着いて、何か予言することなど到底不可能です……。」(レヴィ=ストロース 2008)というあまりにも物悲しく、痛切に響く言葉と、上の小林の発言は、我々の想像力の行く先を残しながら、重なり合う。


 『〜繁昌記』で小林が荒木とビールを飲んだ原宿のセントラル・アパートも、今は存在しないのだ。(小林 1992b 62) 小林の眼前で繰り返された「町殺し」や、予め失われることが約束され、そして直線的な時間の中で失われている熱帯の姿と対峙したレヴィ=ストロースにとって突き放すべき時間となった世界の中で、私たちは生きている。私が生きる時間、私たちが生きる都市、あるいは都市という時間の表層部で生きさせられる私たち。どこへ向かい、どこにあり、そしてどこから来たのか、などという問いかけが虚空に響くような感覚をもたらすものの正体は、もしかしたら霞のようなものなのかもしれない。

 

 

小林信彦荒木経惟, 1992-2002 『私説東京繁昌記』筑摩書房

小林信彦,1992=1995『私説東京放浪記』筑摩書房

小林信彦,2002,『昭和の東京、平成の東京』,筑摩書房

フレッド・デイヴィス1999『ノスタルジア社会学世界思想社