ブログを書かなかった話、ある情景と2004年
ブログを書かなければ、と思いながら半年以上が過ぎていた。
理由は二つあって、ひとつは、家の固定回線を解約したこと。
もう一つは、かつて自分が世界に向かって文章を書いていたモチベーションが思い出せなくなっていたことだ。単純に、メモ帳に文章は増えていくのだけど、そこに残っているものはどれも「見えない誰かに向けて書いた」文章ではなく、「見えない自分に向かって書いた文章」、あるいは「何かの為に書いた文章」だった。
今年の5月に書いた文章が100万PVいったとかで、それ以来、何か自分の中で、外に出すべきものが無くなったような気がした。
言いたいことは言えたような気がしていた。
ブログをよく更新していた頃は、熱病に浮かされたように、言葉がキーボードを叩く速度に追いつかなくなるような、思考がドライブして止まらないようなものを書き連ねる快楽、のようなものがあった。それはしばしば読みづらいとか長いとかとりとめもないとか言われたけど、俺は、思考と文章、その往復運動が楽しかっただけなので、意に介さなかった。
ただ、「今年の5月に書いた文章」は、「見えない誰かが読む、何かの為に書いた文章」だった。
言いたいことを整理し、まとめ、それがウケたわけで、俺の言いたいことが誰か知らない人に行き渡った、ということはとてもうれしく、しかしそれを読み返したとき、自分で書いたもののはずなのに、どこか他人行儀な印象を受けてしまう。
修士論文を書き上げたときもそうだった。論点を整理した箇所は記憶に残らず、苦しみながらただキーボードをタイプし続けた箇所のことは、はっきりと覚えている。
身も蓋もない言い方だが、俺は、思考を誰かに伝えたいわけではなく、熱病の熱、文章の速度、増幅される思考、それらがまざりあった吐瀉物を撒き散らかすことのほうが好きで、その吐き方を半年ですっかりと忘れてしまったのだった。
だから今日は、とりあえず今日は、禊ではないけれど、今年の5月(上で書いた「今年の5月に書いた文章」を書く前)にメモ帳に残していた文章をリライトするところから始めてみたいと思った。
情景の話です。
2017年5月10日
本棚から、12年前、14歳のときにに買った「sb」というスケートボードの雑誌が出てきた。「スケートボードと会話と情景」という特集だった。
12年経って、それをめくり、よく読んでいたページを開くと、そこには今俺が住んでいる街の写真が2枚載っていた。
今、自分が住んでいる街の「情景」を14歳の俺はくりかえし見ていた。
12年間その「情景」を忘れ、忘れたままこの街にやってきて、そのかつての「情景」と、いまここにある風景が折り重なる。
奇妙な体験だった。
12年前にこの場所に流れていたのは、自分の知らない時間だ。しかしその時間の延長に、今の俺の時間が存在している。
接続されることなく、しかしその二つの時間が目の前で折り重なって、その事実に殴られたような感覚を覚えた。
その「情景」は、その頃よく見ていたスケートボードのVHSの中に出てくる「東京」と重なり、そして東京のイメージを強くするひとつの役割を、俺の中で担っていた。つまり、「情景」=「東京」だ。
情景は輪郭を持たない。はっきりとした地点も示さない。
ただ、雑誌の中の、スケートビデオの中の、「東京」が自分の感情と混ざりあって、それは、俺の中で「情景」としての色を濃くしていた。
青色に染まるビル、人のいない街を疾走するスケーター、雑誌の中の東京、恐らく大学に入るときに住み始める東京、今はまだ行けない東京。
セブンイレブンでアイスコーヒーを買った帰り道、歩いているとジャスミンが香って、月がきれいで、スーパーから出てくるOLが空を見上げている東京。
「情景」としての東京と「情況」としての東京が重なった地点に自分が立っているということを、何と呼べばいいのだろうか。
「予期してもいなかったけど、現在の自分になにかしらの”意味”をもたらすもの」として今日の出来事を記述することはしたくない。むしろ、これは奇跡ではないと信じることこそが今の自分が東京にいるということへの祝福のように思える。
情景の中に立っている、俺はいつでも情景の中に立つことができる。それは、きっと東京ではなくとも、しかしいまはこの東京でそれが可能だということを教えてくれた、12年前の自分の肩を叩きに行きたい。
お前は、お前の情景を捨てるな、と。
東京の賃貸住宅に住むということは、見知らぬ誰かが人生を作っていた場所に住むということだ。
俺の関与できないところでどんんどん書き換えられていく/上書きされていく、東京で、でも俺は東京に住んでいて、そこで生きている俺の「俺が生きていること性」は、明文化もされることもなく埋没していくものであってはならない。