2018/02/03 AM7:00

結局自分は何かにのめり込んだ試しもなければ、なにも語れない人間なのではないかと思うことが多い。

 

 

-10代、場所、音楽

 

群馬の、田舎でもなければ都心でもなく、郊外と呼ぶには、その対象となる中心もないような場所における10代は、自己と友人関係が社会に存在しているような感覚に陥ってしまう。

 

俺の場合はそこに音楽があった。音ではない、音楽が、音楽にまつわる社会が、世界があった。

音楽に言葉を与え、思考を与えてる快楽、というものがあった。高校生の頃は近所のブックオフで買っていたロッキング・オンスヌーザークロスビート、などの90年代~2000年代の音楽雑誌にあるような、熱に浮かされた文章に浮かされ、音楽を聴いていた。

パッケージングされていない、当時の言葉で当時の熱を「読む」こと、読み重ねることで、その熱が自分の中にインストールされていく。歴史が、熱とももに自分の中に入ってきて、その熱は音になって俺に届く。その熱の中に、たまに異物が入ってくる。アークティック・モンキーズ!クラクソンズ!ハドーケン!なんだこれは、とたじろぐ、その新しい熱を、自分のものにしようと言葉にして、思考にする。

 

そうしていると、自分が社会の中に確かに存在しているのだ、という気持ちになる。

俺は、俺が手にいれた熱い歴史の上に立っている。そして次に来る異物も、また新しい熱だ。

ママチャリに乗って駅まで10分、その10分をoasisが歌う。Need a little time to wake up 、と歌う。それにどれだけ心を震わされてきたのかということを俺は知っている。

あの瞬間、俺は世界のなかに存在し、世界には俺がはるか知らない熱が点在し、点在する熱に浮かされ、俺は熱のまま俺であることができた。これが俺の音楽だ、他の誰の音楽でもない、これが音楽で、これが俺だ、ということが出来た。

 

 

-20代、音楽

 

それができなくなった。

何を聴けばいいのかわからない。熱が消える。

大学一年生のとき、自分が最先端に触れているというある自覚が消えた。これが最先端だ、これが新しい熱だ、と呼べるものが増えすぎ、熱量を分散できず、そしてついに、「みんな音楽が好きなんだ」と知ってしまった。

新譜を待ちわびた日々はサブスクリプションサービスに取って代わられて、新しい、「最先端であるとされているもの」に耳を通す、が、熱はない。俺の中に熱はインストールされない。

思考が、言葉が、そこに追いつかない。かつての熱を取り戻そうとしてみるも、それはすべて「10代だったから」の一言で解決させられてしまう。

ツイッターでは批評家気取りのドブ虫が音楽をジャッジする。そのドブ虫が「熱い」と言っているものを、俺は聞けない。音楽を聴いて鳥肌が立つことがなくなった。

 

 

-東京

 

東京で、人間関係に、自己に、疲れた俺は、涼しい顔もできずに、ただ何かに怒り続けている。

怒りは、自我を持ったときから変わらずある。ただ、その怒りの矛先がみつからない。怒りは感情であり、思考ではない。思考がなければ言葉は生まれない。言葉がなければ熱を伝播させることはできない。俺の怒りは、熱も帯びず、生活の中に、精神の中に、がん細胞のように広がり続けている。少なくとも、音楽を媒介に達成されいた何か、その何かを描写することはできないのだが、とにかく、「自分がいまここにあり、そして次なる何かを待っている」状態が、かなりタチの悪い形で現れている。

 

 

-写真

 

大学生のときは、写真を撮ってTumblrにアップロードすることが俺を存在させているものだった。そこに熱はあった。しかし熱でどうこうできるゲームでもない。

目を背けていたものは、徐々に(なにかしらで)「売れ」始めている同級生たちのかっこよさ、彼らの、自分が持っていない器用さ、「未来への不確定な不安」だった。

写真には自信があった。それは虚無感に裏打ちされたクールな自信だった。”俺の写真は誰にも撮れない、俺は、主題のない中心を、もしくは輪郭を撮っている”、と思っていた。

撮りたいものはたしかにあった。しかし、何をとっても、撮ればとるほど、なにを撮りたいのかがわからなくなっていく。

写真を撮ることを駆動させていたものは熱ではない。自己の存立だ。実存に向かって街の写真を撮り、そして、この街と自分はまことなき「外部/内部」に包摂されている、と気づく。

誰かが自分の写真を肯定してくれればいいと思った。知らないうちに誰かの目に留まって、どこかのウェブメディアのに乗ればそれはひとつの「成果」だ。

 

ただ、写真を撮って8年、未だにその「成果」は現れない。熱がないからなのかもしれない。俺は、「写真じゃなくてもいい、ただ今は写真でしか表現ができない」と思いながら撮っていることに気づいている。

ファインダーをのぞくその瞬間に浮かされている熱はなんなのだろうか。言葉でもなければ思考でもない、その瞬間にシャッターボタンを押すだけの俺の写真が、他の「成果」を得ている写真とは何が違うのだろうか。きっとこれからも、誰の役にも立たない写真をHDDに貯め続けるのだと思う。

 

 

-大学院

 

大学院生の頃は何の熱にも浮かされなかった。

スタジオのみんなが何をやっているのかよくわからない。俺は映画も見なければ、もしかしたら音楽にハマっていたことすらないのだ。人間の実存に迫り続けることは危険だが、その実存に一枚なにかを噛ませて、その狭間でいろいろな人が苦しんでいる様子をみて、羨ましいなとさえ思っていた。俺にはその「一枚かます」一枚すら抜け落ちている。

没頭すべき研究対象も見つけられず、連日のように渋谷に出て、可愛い姉ちゃんと居酒屋で仲良くなったり、妙齢の男性に声をかけられて知らない場所に連れていかれ、連絡先も聞かずに始発に乗る夜がくるのだと思っていた。しかし来なかった。

結局、自分で無意識に定めた動きに身体を乗せることでしか街を歩けないと知った。なににも巻き込まれないし、俺のことを知っている人は誰もいない。俺は街にとって必要なものではない。

どうしようもない修論を提出した。友人たちの、熱をまとった修論審査を聞いていたあの時間には、戻りたくない。

 

 

-怒り

 

何者でもないじぶんの存在はどこにあるのだろう。何者でもない自分は、世界にとって誰なのだろう、という問を投げかけ続けている。

音楽を聴くこともなくなった。耳に入れる音楽は増えたが、その熱にうかされることは皆無に等しい。ただ、怒りはある。自分が何者にもなれない怒りと、何者かになろうとしている自分への怒りと、自分を認めない他者への怒りだ。

 

 

-満たされる

 

来月3月、俺は27歳になる。

何も変化してほしくないと思う。俺は俺のまま生きて死ぬしかないし、シンプルなことは考えられない。この俺が満たされる日は永遠にこないとすら思う。滞納している家賃などを払い終えた日なのだろうか。

自分の人生を一時停止して、(これはSF的な話ではなく、ある種のメンタルのモードとして、だけど)そのときになにができるのかもわからない。

誰にも見られていない写真は続けたくない。頭のなかで鳴っていた音楽も止まってしまった。でも写真は取り続けるし、音楽も聴くのだろう。そして俺は生き続けてしまう、自己と自我と共に。

 

 

-何も語れない自分も生き続ける

 

熱がほしい。

俺は何かにとっての誰かである、を、熱を持って自己認識したい。何をやっていいのかわからない。今いる俺はだれなんだ。なんで俺は俺でいられるのかをその日しのぎのメシとかで成り立たせたくない。俺は俺になりたい。満たされない俺になりたい。その渇望に熱を注ぎたい。

もっと俺の熱でみんな火傷してくれ。その火傷を友達にみせびらかすのもいい。

友達がほしい。

何も語れない俺はきっとこのままもずっとこのままで、「何も語れない」ということについてであればいくらでも語れる。でもそれも結局何も語っていないのだとしたら、俺はこの螺旋みたいな人生が少しずつ外周へ向かう螺旋であることを祈るしかない、しかし祈りに割く時間がない。

 

 

-欲望

 

熱の侵入が人生に起こって欲しい。

かっこいいやつらが多すぎる。かっこいいことをしている奴らが多すぎる。俺はかっこいいやつにはなりたいけど「かっこいいやつら」にはなりたくない。

俺はここにいる、これは絶対のことで、俺はここにいるということは揺るがない。

でも時々すごく寂しくなる。寂しい。熱を持つ。怒りを持つ。生きづらい。吐き気がする。

何か俺に、暴力でもいいから、熱を差し込んでほしい。しかもそれは、俺が「差し込まれたい」と思っていない時に。

次の自分はどんな自分なのだろう、そればかり考える。