2016年4月17日

  眠れなさの訪れと眠気の訪れは似ていてトランプをショットガンシャッフルするようにそれは交互に訪れる。速度は酩酊の瞬きに近く、向精神薬をブラックニッカで飲み下した先には言語より速く明滅する記憶とそれに付随する記憶地味た感情、情動、身を包むのは寂寞。翌朝に持ち越そうとした感傷は5時まで続き、生活リズムの不調へともつれ込み窓の外の人のざわめきはクソ重い脳を真綿で締められるがごとく耳に届く。ああもうどしようもないなと思いながらコーヒーを入れて朝食とも昼食とも呼べないトーストを流し込んで安いジーンズに脚を通して1日を始めようとするも既にSNSの中の日常は終焉へと向かいつつあり、ああ、今日も1日だ、と言い訳じみた料理と散歩をする。その繰り返しに。
街で桜を見てもそれを送信する相手がいない、だからインスタグラムに吐き出して溜まっていくlikeには既に心は動かない、承認欲求はどこかへ行ってしまって、ここではないどこかへ思いをはせる癖は論理的な言葉とともに強度を増して生活の隅へと侵入し、ともすれば一生この飢餓感と向き合っていかなければいけないのかもしれないという不安を消す手立てを俺は知らずに、折り合いをつけるとはどういうことなのかということをマイナビリクナビを見ながら考える。25歳になった。幸せをトイレットペーパーになぞらえて考えていた17歳と何が変わったのかと言えばヒゲの伸びる速度とカサつく肌と友人の数と知っている音楽くらいなものなのかもしれず、ああ、最近はなんだか楽しいことを受け入れる手立てすら失っている、そのあとの禁断症状の大きさを想像できる程度には思考が育ち、磨耗している。