マンションの写真
2011年の2月に一眼レフを買ってからずっと撮り続けているものがあって、何故それを撮り続けるのかは未だにわからない。自分が写真を撮る理由も、撮っている理由もまるでわからないまま6年がすぎ、データがHDDに溜まっていくばかりで、本当に何にもならずに写真を撮っているのだけど、その中で唯一、言葉にして疑問を持てるのが、「このマンションの写真を撮る理由」だ。
疑問は行動の理由にはならない。理由は意味の背後に必ずしも存在しない。科学以外においては。
このマンションに住んでいた伯母さんは僕が14歳のとき、2004年に50歳で亡くなった。僕にとって、東京に行くということは、しばらくの間このマンションに行くことと意味を同じにしていた。
伯母さんが死んでもこのマンションは存在し、東京に住む僕はそのマンションを見る、ことができる。そして見に行く。写真を撮る。今日はかっこよく撮れたな、とか、今日は空が曇っていていいな、とか、やっぱり写真は昼間撮ると楽しいな、設定を変えてみよう、とか、そういうことを考えながら。そのとき、過去は抜け落ちている。ただ、写真を撮ったその瞬間は、撮られた瞬間に過去になる。それがどんどん溜まっていく。
東京の中にいなかったころの僕にとっての「東京」の上に、新しい過去を覆い被せていく。
このマンションは伯母さんの墓ではないし、よく遊びに行く街でも目立つ建物だし、たぶんいろいろ、僕はいろいろ考えながら、東京でいろいろやってくんだろうな、みたいなことを考える。意味はない。意味がないから撮り続けてるのかもしれない。
このマンションを見ると安心する。何も考えなくてよくなる。だから写真を撮る余裕が生まれる、そういう話かもしれない。
なんでもいいや。本当、ぜんぶ、なんでもいい。